アヴィニオン演劇祭2005を振り返って

7月23日付けのル・モンド紙に、次のような記事が掲載されていた。
「22日夜、文化大臣ルノー・ドンデュー・ド・バブルは、アヴィニオン演劇祭を追跡している全国紙のジャーナリストらを異例の招集、複数の公演で見受けられた「暴力的表現」や、演劇祭と銘打っていながら演劇よりダンスや間領域的表現に偏っていると批判されているプログラムについて意見交換を行った。」「文化省は演劇祭の芸術的選択やその独立性について一切介入することはない、としながらも、2006年のアヴィニオン演劇祭60周年に向けて緊密に連絡を取り合うだろう、とコメントした。」

とうとう文化大臣までが介入してきた今回のアヴィニオン。新聞各紙が連日、辛口の酷評を掲載し、論争が巻き起こっていることは知っていたが・・・今年のアヴィニオンに対する評価は極めて厳しいものとなった。
誰が何をしても議論の的になってしまう論争の国、フランス。その中でももっともウルサイのが知識人とか演劇人だし、ことフランス最大の演劇祭アヴィニオンとなると毎年容赦のない論争の餌食になるのは当然のことではなるが。
では、これらの批判の根拠はどんなところにあったのだろうか。筆者の私見も交えながら批判のポイントを整理し、遅ればせながら今年のアヴィニオンを振り返ってみたい。
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(c)Luca Del Pia / ロメオ・カステルッチ

■ダンス寄り、テキストが不在でプログラムが偏っている、という批判
アヴィニオンが始まる当初から、今回のプログラムはかなりダンス寄りであることは指摘されていた。アソシエート・アーティストであるヤン・ファーブルはそもそも、フランスでは「劇作家・演出家」ではなく「美術家もやってる振付家」と認識されていることもあり、プログラムが発表されたときは予想の範囲内、という反応に留まっていた。
ところが、実際フェスティバルが進展するにつれ、演劇関係者や観客が騒ぎ出した。フェスティバルのメイン会場であり、その年のアヴィニオン演劇祭の象徴的作品・作家に捧げられる教皇庁特設会場Cours d’Honneur du Palais des Papes (直訳すると教皇庁の「栄誉」会場!)に、演劇がない。戯曲がない。ファーブル2作品「Histoire des Larmes 涙の物語」「Je suis sang 私は血」はセリフ付きのダンス、マチルド・モニエ「兄妹」はザ・コンテンポラリー・ダンス、そして最後を飾ったのはJean-Louis Trintignant によるアポリネールの詩の朗誦。
演劇がない! もともと「演劇祭」であるはずのアヴィニオンのメインに演劇がないことを、演劇関係者は大声で叫び始めた。
昨年から新しいディレクションになりアソシエート・アーティストを置き始めたとき、ヤン・ファーブル、ジョゼフ・ナジと2年連続で振付家がアヴィニオンのメインを飾ることは分っていたことなのに、実際そうなると抵抗勢力は危機感を募らせた。
確かに観客は演劇ともダンスともつかない作品の前で、あるいはダンスとも美術ともつかない作品の前で、「いったいこれは何なの?」という思いで会場を後にすることが多かっただろう。演劇といえばちゃんとした戯曲があって、演出家がいて、役者がいて、古今東西の演出の差異をあーだこーだと議論するのが演劇関係者のある種特権的な悦楽である今日、その「言葉の芸術が持つ特権的な力」に敢えて揺さぶりをかけようとした今回のプログラムそのものは、非常に果敢な選択だったと筆者は思っている。しかし問題は、そこで披露された作品、しかもその多くが新作だったため、「え?」という肩透かしをくらわされた観客や演劇関係者が、それみたことかと激しい反逆に出たこと、なんだろう。
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(c)Luca Del Pia / ロメオ・カステルッチ

■ 暴力的、性的・・・「ノワール」な表現が多すぎる、という批判
ヤン・ファーブル、ヴィム・ヴァンデケイビュス、ロメオ・カステルッチ、ジゼル・ヴィエンヌ、筆者は観られなかったがトーマス・オスターマイヤーの最新作(サラ・ケイン脚本の「Blasted(爆破されて)」)など、暴力的、残酷、性的、魔術的・・・何か尋常ならざる世界観が堂々と提示されていることに、ある種の嫌悪感を示したのは、フィガロなど保守的な新聞。 確かに、全体的な傾向として、子供には積極的に見せられない残酷シーン、性的シーン、あるいは変態シーンは多かったと思うし、80パーセント近い確率でダンサーや役者が全裸になっていた。しかし残酷なのも変態なのも、畢竟我々の生きる現代社会の反映である以上当然受け入れざる得ないことだろうし、フェスティバル側もわざわざも狙ってプログラムしたわけではないので、あとは嗜好とか免疫の問題だと思うのだが。が、確かに今年の「エログロ」傾向の過激さは、一般の観客には相当ハードだったことも事実。少なくとも日本の公共ホールでは招聘不可能なレベル。しかし、地球で起こっている現実はもっと残酷で暴力的なのだよ、と筆者は思う。そういった人類の「ノワール」な部分から目を背けたい、少なくとも舞台では見たくない、という観客にも問題意識を共有してもらえるような作品としての強度や本当の美しさを、今回のアヴィニオンは充分に持ちえたか、といことをむしろ問題として議論していくべきではないだろうか。
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(c)Philippe Delacroix / 「私は血」 by ヤン・ファーブル

■「コケた」新作が多すぎ、という批判
そして今回のアヴィニオンでは、「フェスティバルで紹介される全作品の5分の4が、プログラミングの時点ではまた初演されていなった極めて新しい作品で、また全作品の半分が、アヴィニオン演劇祭の(コ)プロデュースによる新作」という大胆な賭けが、結果として裏目に出てしまった。どう贔屓目に見ても見事に「コケた」作品が複数あったことは事実。それはフェスティバル・ディレクターのヴァンサン・ボードリエ自身が認めているところだ。しかし既に出来上がった美しいものを買ってくるだけなら誰にでも出来ることで、世界に先駆けて新作を創作し、それを普及するということに重きを置いた今回のアヴィニオン、決して方向性は間違っていないと思う。少なくともそのような大胆な賭けができる世界でも数少ない演劇祭であり続けることが、アヴィニオンがアヴィニオンたる所以なのではないだろうか。
ただし観客や批評家たちはそんなことは無関係に、作品そのものを観てアヴィニオンを切っていくので、やはり作品という最終的なアウトプットは大切だ。その点が弱かったと言われても反論は出来ないだろう。あとは個々のアーティストの問題でもあるのだが、アーティスト側としても、プレスに自分の作品が「最低の作品」って書かれたら普通へこむよなあ・・・ジャーナリストも署名つきでよくまあそこまで辛らつに書けるものだ。このように、創る側も批評する側も自分の職業生命をかけて戦っている戦闘の最前線、それがアヴィニオンであり、それがこの小さな地方都市を舞台に繰り広げられる白熱の論争の原動力であることは確かだろう。
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(c)Marc Domage / クリスチャン・リゾー
by smacks | 2005-08-06 23:15 | ■アヴィニオン05-06